声に値段がつくのなら

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声に値段がつくのなら…

 

 

昔話『人魚姫』の魔女は、人魚をいっとき人に変えるのと引き換えに、その美声を我が物としました。

 

声は千差万別、多種多様、その人にとって唯一無二、各々の個性に満ち満ちています。

それでも、もし、声自体が取引可能になったなら、どんな声に最も高値がつくのでしょうか。

 

当然、用途・目的によって求められる声は様々です。では、vtuberにおいて最も価値ある声とは、どのようなものか?

 

ASMR、歌、ゲーム実況、雑談…vtuberも色々なことをやりますが、最も汎用性に富み、万人に受け、好感度の高い声は、ピカチュウボイスではないでしょうか。

文字で表すと濁点がついて、濁ったように感じられるけど、決して汚いわけではなく、喉がたっぷりと潤い、声帯を十分に振動させている、そういう声。ほかにいい例えが思いつかないんですが、強いて言うなら嗽、みたいな…。たいてい、低い声も出せます。元来声帯が柔らかいんですかね?ニャースの声も、この系列かしら。こちらは犬山イヌコですが。ニャンちゅう……までいくと、どうだろう…。

 

ともあれ、大谷育江は偉大です。数ある代表作のなかでも、アニメ『ポケモン』におけるピカチュウの演技は、国民的マスコットキャラとして、遍く日本人の心に刷り込まれました。ピカチュウに声が似ているということは、無条件に受け入れられるのとほぼ同義です。

一方その弊害として、「とりあえずピカチュウのモノマネしときゃ可愛いって思われるだろ」という輩が後を絶ちません。そのあたりの話は、私などがいうよりも、輝夜月の中の人が出している「猿でもできるピカチュウ声真似講座」を見るほうが良いでしょう。

この動画では、上記の輩に対する雑なモノマネへの怒り(これだけならありきたりですが)と、「ピカチュウの声真似はなぁ、こうやってこうやってこうするんや!」という高度な実技指導と、「今言ったのは普通の人には難しいかもしれん。けどせめて、ここだけは気をつけてくれ、そしたら許されるレベルになるから」という最低限の留意点を伝えてくれています。彼女なりの矜持が垣間見える、いい動画です。

 

さて、実際この輝夜月系列の声の持ち主は、今どれくらいvtuber界にいるのでしょう。

パッと思いつく限りだと、輝夜月、はちこ、白藤環。カフェ野ゾンビ子なんかもいわれてましたかね。あと、アイドル部のもこ田めめめとか。

はちこなどは、かなり早く(イメージとしてはギリギリvtuber黎明期くらい?)にデビューしたと思うのですが、今の影の薄さに不満なファンも多くいらっしゃることでしょう。

声質、デビューの早さ、動画編集能力(「Raft」実況動画1本目の切り方など、かなり引きのあるタイミングで締めていたのが印象的です)、諸々複合的に考えればもっと上にいていいはずのvtuberです。

もちろんvtuberとしての成功が全てではありませんし、演者のモチベーションや体力、また母体であるサークルの方針にも依るところが大きいのでしょう。一つ思うのは、デビュー時期が今のように生放送主体が当たり前であったり、許される時代であったなら、あまり気張らずに良いスタートが切れたのでは…ということ。

とはいえ、当人にその気さえあれば、いつでも未来はワンダフル。どうやら再始動の雰囲気なので、楽しみに待ちましょう。

 

あんたま、もといVRアイドルえのぐの白藤環も、そのポテンシャルを未だに上手く発揮できていません。というか、岩本町芸能社の魅せ方、アピールの仕方、売り込み方の問題ですね。基本的にこのブログでは〇〇(特に運営)が悪いという物言いは避けているのですが(というのも、いつだって物事は複雑に絡み合っているから)、これに関してはハッキリと自信をもって言えます。だから岩本町芸能社をやめろというわけでもありませんが。彼らも彼らなりに頑張っているのでしょうし…。

 

白藤環の声、これはもうvtuber界でも一二を争うスペシャル・ワンです。プロの声優やそこからドロップアウトした人など、声の魅力に自信のある者ばかりがひしめき合うこの界隈にあってさえ、彼女の声質、発声、滑舌、バリエーションの豊かさは引けを取りません。もちろん細かい技術は劣るでしょうが、特別なトレーニングを積めばどこまでも上を目指せるに相違ありません。

(追記5/17:本記事執筆当時は、彼女がその筋の方だと知る由もありませんでした。とすると、これ逆に失礼なことを書いているのでは……??)

 

また、白藤環には努力する才能があります。えのぐのメンバーの中で、一番歌が下手だったのは白藤環です。鈴木あんずと日向奈央が頭2〜3個ほど抜けて上手く、夏目ハルはまずまず、栗原桜子と白藤環は聴いていて不安になる…といった具合でした。意外に緊張しいなのもあり、はじめのころはいつも声が震えていました。今の歌を聴くと、隔世の感があります。

ダンスも似たようなもので、日向奈央が運動神経の良さを見せる他は、だいたい先ほどの序列と変わりません(あくまで個人の主観)。が、白藤環は明確に運動音痴です。栗原桜子も女子にありがちな運動しないタイプのようですが、ダンスに関してはやればできる感じを受けます。白藤環は、もうゴリゴリの運動音痴です。動きを覚えたり再現したり、なんてのは苦手中の苦手で、ダンスする上で致命的なのではと思うくらい。それでも、なんとか食らいついていっています。

 

そして、彼女にはもって生まれた才能があります。アイドルとして、声や歌やダンスよりもっとずっと大事なもの。それは、周りを明るくする才能。オーラ、雰囲気、カリスマ性…様々な呼び方があるでしょうが、これだけはどんなに血の滲む努力をしても手に入りません。まさにギフト、神からの贈り物であり、そういう才能の持ち主を、私たちはTalent(才能)と呼ぶのです。

あにハニの末っ子という刹那的なインフルエンサー

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やや不本意ですが、これ以降あにまーれ・ハニストの略称はあにハニで統一していきます。

 

…やや不本意ですが。

 

さて気を取り直して、ここで言う末っ子とは、チャンネル登録者数順に並べたときに各グループの一番下にくる2人のことを指します。ほかに良い呼び名が思いつきませんでした。他意はありませんので、悪しからず。

 

日ノ隈らんと島村シャルロット、この2人は登録者数こそ他メンバーの後塵を拝しているものの、彼女らにも成し得なかったある偉業を達成しています。

 

それは、vtuber界におけるインフルエンサーになること。これまでのところ各々一度きりですが、それだけでもこの界隈に十分爪痕を残したと言えるでしょう。

 

それは、奇しくも両者ともに前世から受け継がれてきた伝家の宝刀とでもいうべきものでした。

日ノ隈らんの激辛チャレンジ、島村シャルロットのマイクラ

 

前者は、ちょうどペヤング激辛MAXENDが売れ行きを伸ばすとともに、vtuber界を一時席巻したことを皆様もご記憶のことと思います。この激辛チャレンジは前世からの十八番であり、「とっておき」の切り札として、最高のタイミングを待ちながら、日ノ隈らんが温めていたものと思われます。

 

余談ですが、あにハニで最も闇が深いのはこの日ノ隈らんでしょう。両リーダーが最も闇深いと思われがちですが、彼女らの闇はある意味で分かりやすい。闇なのに分かりやすいって、なんだか矛盾してますね(こういうのなんていうんでしたっけ、明るい闇とかきれいな汚れとか……あー、オクシモロン!)。言ってみれば、ザ・闇という感じ。

翻って日ノ隈らんは、あの妙にあっけらかんとした…なんというか、ただ明るいとは言い切れない何かがあります。稲荷くろむ引退配信でのサバサバ感といい(内心色々思うところがあったろうに)、前世からの相棒である宗谷いちかと大してベタベタもせず(前世で仲良し2人組というvtuberは複数いますが、たいてい現世でも特別な親密関係にあります)、例のNGなし配信では明らかに1人だけ精神年齢が高いというか、達観してた印象。彼女の外交問題について、因幡はねるが「グループのためにやってくれてるんだよ」とフォローしても、「営業妨害だよぉ〜」という調子。あの修造空間で平常運転をかますのは、只事ではありません。

ずっと気になっているのは、前世でも現世でも「12歳」という設定にこだわっている点。12歳のときに何かあったのか…と安直な考えも浮かびますが、これ以上は無意味な詮索でしょう。きっと、なんとなくそのまま流用しただけに違いありません。

 

もう1人の末っ子である島村シャルロットも、ファーストインプレッション以上に闇が深い。島村シャルロットというキャラを、完璧に演じきっています。徹底したロールプレイ。その意味では、堰代ミコ以上の役者なのかもしれません。

 

さて、すっかり脱線してしまいましたね。ここからその島村氏の話に移ります。

イクラは、昔も今も変わらず島村シャルロットの主戦場ですが、特にターニングポイントとなったのは、ハニスト大運動会です。彼女の倦まず弛まず建築し続ける才能が、最も遺憾無く発揮された企画ではないでしょうか。ここで重要だったのは、共有サーバで行われた、ということです。

 

前にも書きましたが、猫宮ひなた登場以降、生半可な腕前ではゲーマーを名乗れなくなりました。ゲーマーを名乗らないとしても、強みとするためのハードルがグッと上がったのです。電脳少女シロなどは、当初PUBGをプレイする女性vtuberが希少だったこともあり(初見プレイなどは別として)、アイデンティティの一つでしたが、今やただやるだけでは強みになりません。

猫宮ひなた登場以降は、彼女にはできない生配信でのPUBGプレイのなかで優劣を競ったり、あるいは一定以上の腕前をもった女性vtuberだけが強みとして、アドバンテージを得られる…という風になっていました。

PUBG自体は、チーム戦、オンライン(つまり手軽にコラボできる)、配信そっちのけにならない程度にはゆとりのもてるゲーム展開、そしてカスタムサーバを使えば配信者とリスナーのみで遊べる(あわよくば交流も可能!)という諸々の要素が絡み合って、生主系vtuberにとって必須項目となっていましたね。

しかしいくら流行りといっても、PCのFPS/TPSゲームです。未経験者がいきなり放り込まれて足を引っ張らずに楽しくプレイできるかというと…ちと、敷居が高い。よほどの手練れが介護に徹しなければ、厳しいでしょう。

 

そこに、ハニスト大運動会が開催された。ほぼ1人の手による大きく多彩なステージ。てんやわんやに動き回るメンバーたち。

そう、マイクラならこれといったプレイングスキルは必須ではないし、そもそも勝ち負けがつくゲームでもない。それぞれの想像力と発想力で、いかようにも楽しめる。同じ世界を共有して、継続的にコラボの場にすることもできる。PUBGよりも遥かに配信向きです。

枝葉でいうと、PUBGなどで起きていた配信者とリスナーの絡みについて、一部問題視される場面も散見されるようになっていました。これは、過去の配信文化でも起きた事態です。どうしてもある程度の人数が必要な対戦ゲームでは、仕方のないこととも言えます。その点マイクラなら心配ありません。わざわざリスナーをワールドに受け入れたvtuberもいたようですが、色々と至れり尽くせりで(小さな親切、大きなお世話!)配信者のやることがなくなった…という落語みたいな話も。

もともとマイクラをする人はいましたが、最近のように猫も杓子もマイクラをすることはありませんでした。今や、にじさんじやドットライブなどの大所帯でも共通のワールドがいくつも作られ、相乗効果でますます手をつけられなくなっている。人数が多いほど、広く深く複雑な世界になりますから。今、個人でvtuberを始めて生き残るのは、ほぼ不可能です。

 

少し長くなりましたが、こういうわけであにハニの末っ子2人ともが、偶然か必然か、vtuber界において瞬間的にであれ、重要な役割を果たしていたのです。一体どれだけの人がお気づきだったか、分かりませんが…。

表記揺れ雑感(なぜ、VTuberではなくvtuberなのか?)

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最近になって、気付いたことがあります。私にとっては衝撃的な事実でした。

 

「あにまーれ+ハニスト」の正式略称は、あにハニだということ。公式が、はっきりとその字句を用いていたのです。

 

あにハニか、あにストか。この両派の対立は、それはもう凄惨な、血で血を洗う争いを繰り広げてきたのです(少なくとも、私の中では)。きのこたけのこ論争にも劣らぬこの熾烈な争いに、まさか終止符が打たれるとは。

 

両者それぞれに、言い分があったことでしょう。公平に先頭二文字をとった前者が正しい、いや、喋り易さ・噛み難さからいえば後者が優れている、いやいや、後者は「ハニスト」と一文字違いで後ろに引っ張られすぎている…などなど。

 

界隈においてどちらが優勢か知りたくもありましたが、すでに公式が使用した以上、あにハニの優位は揺るぎないものとなってしまいました。あゝ無情。

 

 

で、それはともかくですね。

本題は、なぜこのブログで「vtuber」という表記を用いているのか、です。

ほかでこの表記を見たことがありません。基本はVTuberVtuber、この2択です。バーチャルユーチューバー(Virtual YouTuber)の略称である以上、VTuberが圧倒的に正しく、次点でVtubervtuberなぞ論外です。

 

VTuberが主に使われるのは、キチンとした仕事として書かれるネットニュースや、企業色の強いVTuber側の発信です。逆にVtuberは、ややカジュアル、オフィシャルではない場面であったり、あるいは企業色の弱いVtuberや個人勢によく見られる表現です。

 

動画中心であるほど、企業色は増し、生放送中心であるほど、企業色は減じます。これは企画立案・動画撮影・編集スタッフ含めた運営側の影響力の多寡に比例します。逆に言えば、演者放任主義の度合いに反比例しますね。

 

スタッフや企業と無関係な個人勢も、動画/生放送の配分により、ほぼ似たような傾向が見えるでしょう。

というのは、初期に生まれたVTuberほど動画中心、かつVTuberという表記にこだわりをもつ者が多いからです。最たる例は、VTuberという略称すら頑なに拒むバーチャルユーチューバーのドン、キズナアイでしょう。逆に、にじさんじ以降爆発的に増えた生放送主体のVtuberは、周囲からの反発により、VTuberと名乗ることに少なからず引け目を感じていました。にじさんじ一期生が肩書きを変遷させたことについては、以前に触れたことと思います。

 

以上のことから、何も考えずにいたとしても、VTuberあるいはVtuberを使うのが至極自然であり、vtuberは明らかに不自然です。

で、問題はなぜvtuberなのか。

 

 

理由その1。VTuberあるいはVtuberという表記に、座りの悪さを感じていたから。要するに、頭でっかちに見えた。

 

理由その2。こちらが本命と思われますが、Virtualであることに、vtuberの本質はないから。これまでも述べてきた通り、芸能人、タレント、YouTuber、国会議員、個人事業主、サラリーマン、主婦あるいは主夫、仕事でなくても親の前、子供の前、先生の前、クラスメイト前、知り合いの前、親友の前、恋人の前、伴侶の前、憎むべき相手の前…様々に移り変わる人間の在り方は、バーチャルな性質の上に成り立っています。

なぜ、vtuberだけがVirtualityをアイデンティティとして声高に主張する必要がありましょうか?

Vに固執するのは、自らの存在意義に不安を抱いていることの裏返しです。

 

だから、このブログではvtuberという表記をしています。ご了解下さい。

 

 

 

 

 

 

 

…というのは全くの後付けで、適当に使った表記を漫然と続けていただけかもしれませんが!

 

げんげん〜vtuber界の伊藤智仁〜

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しばらく間が空いてしまったので、肩慣らしをしなければなりません。

というわけで、ゆるめの記事です。

 

皆さん、げんげんを覚えておりますでしょうか?

リアルタイムで見ることの叶わなかった方々も、その名前は知っているかもしれません。ときどき、織田信姫がオマージュ動画を投稿していましたから。全くの余談ですが、もしvtuber通ぶらなければ命に関わるシチュエーションに追い込まれた場合、げんげんかミソシタ、あるいはさはなの名前を挙げておけばひとまず急場は凌げるでしょう。それなりの知名度がありつつ、にわか扱いされないポジションというのは、貴重なものです。

 

げんげんのスタイルは、いわば短編集でした。げんげんと名乗る筋肉質の男がカメラの前にいて、そのときの設定を視聴者が把握できるように、現状を説明してくれる。最後は、その後の不安を匂わせつつフェードアウトするという締め方で統一。

 

例えるなら、星新一の『ノックの音が』。全ての作品が「ノックの音がした」という一節から始まるSF短編集です。あるいは、少しスケールが違いますが、荒木飛呂彦の『ジョジョ』シリーズ。こちらはご存知の通り、主人公がみな「ジョジョ」というあだ名をもつ、少年漫画の王道的なバトル漫画です。

 

げんげんも、各動画に「げんげん」と名乗る男が現れるものの、決して同一人物というわけではありません。しかし、なにか同じ匂いを感じる(ポストアポカリプスというか、世紀末というか…)世界観を緩やかに共有することで、一本軸を通しています。

 

vtuber黎明期は、こういった「どこまでがvtuberか」という曖昧な部分を攻めていくスタイルが多く見られ、とてもスリリングな気分を味わえました。今が悪いというわけではなく、ただ時期が違うというだけの話です。生放送主体でファンを獲得する、というのは、〇〇というキャラクターそのものに魅力を感じてもらうということであり、同一性が保障されている必要があります。いわば、主人公の変わらない長編小説として、腰を据えて楽しむことが求められているのです。

 

たしかに、げんげんのスタイルは魅力的でした。が、一方で長続きしなかったのも、また頷けるのではないでしょうか。

毎回設定を練り直すには、それなりのエネルギーが必要ですから。

もちろん、そのほかの要因もあるでしょうけどね。

 

今回はこれといったオチもありませんが、ウォーミングアップということで、一つご容赦を。

 

vtuberは誰のもの?

(1628字)

ゲーム部の騒動を、運営側の発表も含め、あらためてきちんと確認しました。その結果、これは騒動というより、人権侵害に近いことが起きていたのだと認識するに至り、再び記事を書いています。

 

vtuberと中の人の問題については、もう少し力を溜めてから書くつもりでした。が、もうこの界隈には限界が迫っているようです。今書かなければ時期を逸するでしょう。

 

どうして、vtuber界はこうなったのか?

個々の運営体制に問題があった、それは確かです。しかし、それだけではない。もっと根本的なところに原因があります。

 

人格を、切り離して考えられないこと。特に日本人は、この傾向が強い。そこが諸悪の根源です。

 

前にも言ったように、ヒカキンはヒカキンであって、ヒカキンではありません。キムタクも同じく。あらゆる人がそうです。国の要職に着く公人、芸能人をはじめとした半公人、ごく普通の会社勤めをこなす一般人でさえ。

 

『24人のビリー・ミリガン』のような多重人格者を知って、あなたはどう思うでしょうか?

「なんてたくさんの顔を持っているんだ」?「自分じゃ考えられない」?

 

いいえ、いいえ、それは間違っています。

逆です。少なすぎるのです。

 

人は、友達の前と、先生の前では、違う顔を見せます。怖い先生と、優しい先生でも違ってくるでしょう。若かりしあなたは、それを良しとしなかったかもしれません。相手に合わせてコロコロ態度を変えるなんて、不届き千万だと。しかし、それは違います。健康な精神状態にある人ほど、柔軟に自らを相手に合わせることができます。相手に合わせるのが辛いときは、心の余裕がなくなっているときです。

人は、無数の顔をもっています。24どころではありません。それはグラデーションのようになっています。それなのに、無理やり線引きをすればどうなるか?それが多重人格です。虹は七色ではありません。日本人の場合は、その多色の帯を七つに分けて認識するというだけのことです。

 

羽生結弦をナルシストと見る向きもありますが、それは当たり前です。彼はすでにただの羽生結弦ではなく、その競技におけるトップアスリートであり、国を代表する人間です。自意識過剰なくらいで十分なのです。少なくとも、桜田前五輪復興担当大臣より遥かにマシです(比べるのも失礼なくらいに)。

 

アイドルが結婚するたび阿鼻叫喚するそこのあなた。

アイドルはあなたの擬似彼女ではありません。アイドルとしての彼女と、プライベートの彼女は、全く別の人格です。

 

vtuberと、中の人も、やはり別人格です。

それなのに、vtuberの中の人は、表舞台に立つどころか、立派に中の人として務めを果たしていることすら明記されず、中の人がいるという事実までも公に認められることはほとんどありません。

このような状態になければ、仮に今回のような事態が起こっても、中の人の人格として、早い段階で外部に向かって堂々と発信することが出来たでしょう。

しかし、今はvtuberと中の人が混同されている。中の人としての人格は、ほとんど塗りつぶされています。事情を知る一部のファンが気づくまで、今回の事件は明るみに出なかった。そのことが、全てを物語っています。

 

アズマリムの決死のSOSは、アズマリムという複数人で作り上げた人格に、風穴をあけることで行われました。そうするしか、方法がなかったから。そうしなければ、中の人の人間性が踏みにじられていたから。

あのときの教訓は、全く活かされてません。それがなによりも哀しい。

 

芸能人のプライベートを漁って飯の種にしたり、他の人と同じように暮らしたいだけの有名人に付きまとったり、そういう文化が蔓延る限り、日本に未来はありません。

同様に、vtuberと中の人を切り離して話し合える世の中が訪れない限り、vtuberに未来はありません。

 

このブログは、そういう世界を目指して書かれています。

ゲーム部の騒動を受けて思うこと

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箸休め記事です。

 

ゲーム部プロジェクトには全く興味がないので、たまたまvtuberとは関係ないネットサーフィン中に知っただけなのですが…。

 

事の真偽を追求するつもりはありません。ただ、少し思うことが。

 

ゲーム部プロジェクトは、ご存知の通り、寸劇系の動画やポケモン対戦動画を中心に活動する、企業型、3DタイプのYouTuber系vtuberです。登録者数でもかなり上位に位置し、派生した道明寺ここあ単独の歌チャンネルも、歌唱系vtuberではトップクラスの伸びを見せています。説明としてはこのくらいでいいでしょう。

 

こんな辺鄙な場所にまでたどり着く方々なら薄々感づいておられることでしょうが、vtuberの運営というのは、半ばヤクザな商売です。

 

そもそもタレントのプロダクション・マネジメントという業態自体、さまざまな大人の思惑、その世界での政治力学が働いて出来たものです。いわゆる大手芸能事務所を思い浮かべていただければ、納得いくのではないでしょうか。

それでなくとも、vtuber業界はこの1、2年で急激に市場拡大した新興産業です。そこに目をつけていち早くビジネスを成立させるのは、良くも悪くもエネルギーに満ちた人々でしょう。

 

今更あらためて昔の詳細を掘り返したりはしませんが、今回のような出来事がゲーム部に限らないことは、皆さんもよくご承知のはずです。

タレントによる運営への愚痴ならまだ可愛いほうで(これはこれで問題ですが、職場に対する不満という一般的にも有り得る括りになります)、もっと深刻な場合には告発、あるいは選考に際しての不誠実な対応だったり、内部リークの可能性を否定しがたい身バレetc…。

 

私も含めて、今後もvtuberを応援し続けるつもりのある人は、覚悟が必要になります。暗部も公平に直視する覚悟。自分が応援しているところは多分大丈夫、という根拠薄弱な希望は捨てるべきです。

 

だから、vtuberを考えるとき、運営が何を考えているのか、どういうつもりで立ち回っているのかを、常に頭に入れておく必要がある。

消費者がそこに目を向けられるようにならなければ、この業界が成熟することはないでしょう。

 

 

 

あなたは、どうですか?

因幡はねると親子関係

(2043字)

少し、驚きました。

何かというとですね。

このブログ、今20個くらいの下書きというか、メモ程度のネタをストックしているのですが。

正直、守備範囲がニッチなので、他の人と被ることはまずないし、被ったところで大した内容じゃないので問題ありません。というわけで、先を越された!という状況はほぼ起こり得ない。

…のですが、唯一の例外を見落としていました。テーマとなるvtuber自身が、まさに想定している次の一手を放つこと。

 

というわけで、急遽この記事を仕上げる必要が出てきました。因幡はねるが今回の軸です。

 

とはいえ、書き渋っていたのにも理由があります。はっきり言って、余計なお世話だからです。この記事に限った話ではありませんが、特にその色が強い。しかし、ここ最近の動きを見ると、どうやら当人も気づいていそうなので、もう構わないでしょう。

 

因幡はねるは、非常に…独特なファン層を形成しています。それは、ある程度本人の目論見通りでしょう。前にも述べたように、後発のvtuberが生き場所を確保するには、それなりの手段が必要になります。ともあれ、あにまーれを軌道に乗せる上で最も貢献した1人であることは、論を待たないはずです。宇森ひなこもコンギョで露出度を高めましたが、こちらは本人の意図しない形での、偶発的なものでした(それからしばらくの間、いわゆる「コンギョキッズ」の扱いに苦慮していたことからも察せられます)。

この点が、2人の最大の違いです。自分をどう売り込むか、どういう人々に狙いを絞ってアピールするか。別に、宇森ひなこを貶める目的で言っているわけではありません(彼女については、また別途記事を設けます)。

因幡はねるは、圧倒的なキャリアを誇るベテランです。自分の強み・弱みをよく理解している。これといった後ろ盾もない中で道をこじ開けるには、自分にはこれしかないという方法で見事にやってのけた。もはや代名詞となった、ヘイポーリスペクトの謝罪風煽りなどが目を引きますが、彼女の本質はもう少し違うところにある。

 

それは、彼女自身が筋金入りの女性アイドルオタク・追っかけであること。彼女は、その心理と沼にはまり込む過程を身をもって知っています。

ベテランならではの、絶え間ない、一種物量作戦的な配信頻度(これは、心身が長時間の配信に慣れていて、かつ以前の配信をリメイクすることで仕込みの手間を省ける「貯金」がなければ無理な芸当です)。SNSで頻繁に行われるファンとの交流。あえて見せつける弱み。

こうして、ファンとの間に擬似的共依存の関係を形作ること。後々「厄介オタク」的負の側面が表出することも承知の上で、彼女はこの方法に賭けた。そして、一定以上の成功を収めた。

 

しかし、その方法にも限界があります。それに、後から来たハニストの周防パトラがあっという間に抜き去ってしまった。悪戦苦闘の日々。

 

人と人を比べるのは、あまり喜ばれた話ではないかもしれません。しかし『ヒカルの碁』で越智が言っていたように、プロになるとは「どっちが上?どっちが下?」と一生言われ続ける、そういう世界に足を踏み入れるということです。ここは彼女たちのプロフェッショナリズムに敬意を表し、あえて書きます。

 

周防パトラの最大のターニングポイントとなった配信は、どれでしょう?

私の答えは一つです。「正体バレました」の回。いわゆる探偵回ですね。同接が一つの壁を突破したというのもありますが、その中身が重要です。

親に配信者であることがバレ、今の職場で全力を尽くしたいと訴えかけ、最終的に理解を得た、という話でした。まあ、細かい話の整合性は問題ではなく、親との関係性が問題なのです。

価値観の違いはあったかもしれませんが、関係不和ということはなく、然るべき時にきちんと心をぶつけ合うことができた。

 

翻って、因幡はねるはどうか?

話を聞く限り、親子間のしこりを幼少期から引きずっています。それが、彼女の人間性に影響し、あの「心の産毛(私の造語ではないので悪しからず!)」が擦り切れたような感じにしているのです。あるいは、この欠落感・アンバランスさが、ファンとの擬似的共依存に一役買っているのかもしれません。

 

因幡はねるが努力家であることは、彼女を知るほとんどの人が認めるところでしょう。自身の持つ潜在能力は、引き出せるだけ引き出した。これ以上彼女に必要なものがあるとしたなら、それは勤勉な努力ではなく、親との解消し切れないわだかまりに、ケリをつけることです。

もちろん、そんなことは赤の他人が口出ししていい領分をはるかに逸脱してます。親子関係というのは、いつの時代も、誰にとっても、根深い。だから、余計なお世話と言ったのです。

 

しかし、ここ最近の因幡はねるには変化がありました。家族での旅行、母親との料理配信。

 

そう簡単に片付けられる問題ではありませんが…確実に、一歩踏み出した。と、私は勝手に思っています。