げんげん〜vtuber界の伊藤智仁〜

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しばらく間が空いてしまったので、肩慣らしをしなければなりません。

というわけで、ゆるめの記事です。

 

皆さん、げんげんを覚えておりますでしょうか?

リアルタイムで見ることの叶わなかった方々も、その名前は知っているかもしれません。ときどき、織田信姫がオマージュ動画を投稿していましたから。全くの余談ですが、もしvtuber通ぶらなければ命に関わるシチュエーションに追い込まれた場合、げんげんかミソシタ、あるいはさはなの名前を挙げておけばひとまず急場は凌げるでしょう。それなりの知名度がありつつ、にわか扱いされないポジションというのは、貴重なものです。

 

げんげんのスタイルは、いわば短編集でした。げんげんと名乗る筋肉質の男がカメラの前にいて、そのときの設定を視聴者が把握できるように、現状を説明してくれる。最後は、その後の不安を匂わせつつフェードアウトするという締め方で統一。

 

例えるなら、星新一の『ノックの音が』。全ての作品が「ノックの音がした」という一節から始まるSF短編集です。あるいは、少しスケールが違いますが、荒木飛呂彦の『ジョジョ』シリーズ。こちらはご存知の通り、主人公がみな「ジョジョ」というあだ名をもつ、少年漫画の王道的なバトル漫画です。

 

げんげんも、各動画に「げんげん」と名乗る男が現れるものの、決して同一人物というわけではありません。しかし、なにか同じ匂いを感じる(ポストアポカリプスというか、世紀末というか…)世界観を緩やかに共有することで、一本軸を通しています。

 

vtuber黎明期は、こういった「どこまでがvtuberか」という曖昧な部分を攻めていくスタイルが多く見られ、とてもスリリングな気分を味わえました。今が悪いというわけではなく、ただ時期が違うというだけの話です。生放送主体でファンを獲得する、というのは、〇〇というキャラクターそのものに魅力を感じてもらうということであり、同一性が保障されている必要があります。いわば、主人公の変わらない長編小説として、腰を据えて楽しむことが求められているのです。

 

たしかに、げんげんのスタイルは魅力的でした。が、一方で長続きしなかったのも、また頷けるのではないでしょうか。

毎回設定を練り直すには、それなりのエネルギーが必要ですから。

もちろん、そのほかの要因もあるでしょうけどね。

 

今回はこれといったオチもありませんが、ウォーミングアップということで、一つご容赦を。