イワシ記事のコメント所感

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(こういう書き込みをするのは野暮かもしれませんが、失踪前の作者は今は無きTwitterで「特に歌詞に意味はなく、適当に品詞を繋げたもの」という旨のツイートをしてました……)

イワシ記事というのは、これ。

有り体にいえば、『イワシがつちからはえてくるんだ』の解釈記事ですね。

で、冒頭のコメント。全く野暮ではなく、とても大事な点なので取り上げます。

 

ひとまず「」内の文章を修正しましょう。文章というか、語彙選択。前半はオッケーですが、後半の「品詞」というワードチョイスに疑問符。品詞というのは、ざっくりいうと言葉の種類ですね。名詞、動詞、形容詞、形容動詞、助詞などなど。たとえば「『言う』の品詞は動詞です」「『石鹸』の品詞は名詞です」という使い方になる。

「適当に品詞を繋げる」だと、「名詞名詞助動詞動詞形容詞」的なゲシュタルト崩壊まったなしの文章が出来上がります。

もちろん「〜という旨の」と書いてあるので、おおよそのところが掴めれば問題ない。文の前半を受けての流れもありますし、そこらへんで汲み取る。今回の文に補足するなら「特に歌詞に意味はなく、適当に(様々な)品詞(の言葉)を繋げたもの」といった感じ。

これでもまだ確定しきれない部分はあります。「適当に」は「適切に」「相応しい形で」という意味なのか、あるいは「無作為に」「出鱈目に」という意味なのか。全体の文意からすると、まあ後者でとっておくのが無難ですかね。ただその場合、シンプルに作品と齟齬が生じる。

 

全く無意味な言葉の並びというのは、「ありません並びまし、これでにさん下湯浅電池はか瓶ピエール瀧」といったように、文法も無茶苦茶だし言葉選びも一貫性のないものを指します。イワシは普通に読めて意味の通る内容です。

もちろんそこまで出鱈目という意味ではなく、文法的には問題ない最低限の形を維持しつつ、名詞なら名詞、助詞なら助詞のなかでランダムな選択をしたという受け取り方もあります。

ただこの場合、選択のランダム性が問題です。最初の出鱈目文もまあ同じなのですが、結局作る人の取捨選択が(意識的/無意識的問わず)何かしらの形で行われなければ、ひとつに決まって表に出ることも叶わない。

さっきの出鱈目文も、わたしの語彙のなかでしか作られようがない。もっといえば過去に使ったであろう言葉から適当に選んだだけです。知らなきゃその言葉は出てこないし、出てきた中でもなんとなく選別してる。今ならなるべく文意が通らないようにという消極的選択。ピエール瀧は面白くてつい選んだだけですが。

 

で話を戻すと、イワシは完全に意味が通じている。明確な文法ミスもないし、単語選びについてもわざわざ魚で一貫してたりする。別に無意味にしたかったら、キリンが降ってくりゃいいんですよ。あとは唐突に「にんじんポリポリおいしいな」とか。一貫性のある世界観に突然そんなの挟まったら流石に怖いですけど。

件の記事でも少し書いたように、作者の意図はともかく、表面上見た限りはこうなっているというのが基本線。作者の意図なんてあるかどうかも分からないし、答えてもらったところでそれが正しいかもわからない。自分のことでさえ絶対といえないのに、他人の考えなんて分かるわけありません。作者の意図を理解するなんていうのは、最初から放棄してるんです。

まあ、作者と作品の話は正直まともに説明しようとすると大変(かつ荷が重い…)なので、今ここで全部を書くことはありません。

 

今回のケースに戻って、たとえば作者がツイッターでこう言っていたらしい。さてまずそれは本当にあったのか?これについては基本コメントを信用してるのであったとします。あったとして、本気でそう思って作者は呟いたのか?次に作者が本気でそう思っていたとして、実際の出来上がったものと見比べてどうか?

 

たとえば野球でも、一流バッターに「打撃で何を意識していますか?」とか質問して「いやぁ、とにかく来た球を必死で打ちにいくだけですよ」と返ってきたとする。それで「なるほどたしかに!」とはならない。実際にバッティングの様子をじっくり観察すれば、膝を絞ってとかテイクバックを大きくとか、パワーを伝えるにあたって合理的な動きをしている。それを知りたい人は自分で分析するしかない。本人は「自分はダウンスイングだ」と主張していても、実際のスイング映像ではアッパースイングだったり。まあ、これは意識と実動作の差異ですね。

 

前回こう書きました。

もし本当に作品について考察してほしくなかったら、作者としての考えを全て公開してしまうのが唯一かつ最強の手筋です。一撃で作品の息の根を止められます。誰かが「もしかしてこうじゃないかな?」と言い出しても「いや作者本人はこう言ってるよ」で封殺できます。議論になり得ません。

これも修正する必要がありますね。厳密には、作者が提示した作品の分析も、それが実際の作品に照らし合わせて説得力のある内容ならかなり有力だということ。

今回の例だと、作者が無意味と言ったらしい。まあこれはポジティブ(積極的)な説明ではなく、ネガティブ(消極的)な説明なので余計に弱くなるのですが、どれだけ辻褄が合っているか、いろんな人が「あーたしかに」と思える説明になるかどうか。

もし作者が「なんかうたた寝したら変な夢見たから歌にしたわ」と言ったとしたら、まだもう少し説得力があるかもしれない。その場合、なぜそういう夢を見たのかを知りたくなりますけどね。夢も直近の記憶の整理過程で生まれるものなので、何かしらの源があるはず。

重要なのは、無から有は生まれないということ。仮に、生まれてからずっと、五感をはじめとするあらゆる情報を遮断された人がいたとして、果たしてその人は何か生み出そうとするだろうか?

そういう話。

 

今ここに書いている駄文も、数百年後の人にとっては当時の社会性を分析する数多の材料とされるかもしれない。「令和初期の人はこういう価値観だった」とか言われて、自分からしたら「え?マジ?」という分析結果だったとしても、内容を見たら「うーんまあ言われてみればそうかもなぁ…」

 

とかね。おしまい。