ダサさこそラップの本懐

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とか思った。全然ラップ知らないのに。だから信憑性は限りなく透明に近いブルー

村上龍も、今じゃカンブリア宮殿で社長とお喋りするおじさんですが、かつては春樹とともに「ダブル村上」なんて言われて、文学界の超新星の如き扱いを受けてたそうな。春樹は春樹で、今やすっかり秋の風物詩ですけど。

 

いきなりどうしたのかというと、SOUL'd OUTの『ウェカピポ』を知ったのがきっかけ。

で、こりゃすげぇなぁと。ついでに、最近のラップに対して抱いていたモヤモヤに気づかされた。

近年フリースタイルダンジョンとかで、遽にカッコいいものへと舵を切りつつある(らしい)日本のラップ。でも、どこか違和感があった。なんか世間と自分とで、認識のズレが生じている。

原因は、おそらくあれです。ラップって簡単に言えば言葉遊びで、極論ダジャレの仲間なわけで。ダジャレは親父ギャグ、おっさんの代名詞で、ラップは若気の至り、若者の代名詞なんです。それをカッコいいベースで入っていくのは、なんか違うんじゃないかと。カッコいいつもりで見たら、どうしたって残っているダサさに気づいちゃったとき、ものすごい切なくなります。そうじゃなくて、基本ダサくて面白可笑しいものとして見ていて、ふと気づく凄さに「あれ?カッコいいな…」となるのが本筋なんじゃないかと。「カッコいいものなんです!」という売り方は、長期的に見たら自らの首を絞めているように思えて仕方ない。

ゲーマーの風潮にも似たものを感じていて、あんまり「すごいんだ!すごいんだ!」と言い過ぎると、逆効果なのでは。もちろんすごいんですけど、あえてスポーツとかボードゲームとか、地位を確立した遊びと比較されにいく必要はない。純粋にこのゲームって面白いよね、上手いプレイ見ると楽しいよね、からスーッと忍び込んでいけばいい。

春樹だってそうです。ああいう文体とか、小物の使い方とか、設定や物語とか、冷静になっちゃうと基本ダサい。でもそのダサさをビビって抑え目にするより、いっそ盛りまくったほうが清々しい。9割カッコよくて1割ダサいと心が痛むけれど、9割ダサくて1割カッコいいと心に響く。

 

で、こういうのってラップとかに限った話でもない、と思うんです。何にしたってそういうところはある。カッコいいと信じ切ってやられると、見る方としてはきつい。だって100%純粋無垢なカッコよさはないから。ダサさとかアホらしさを分かった上で、自身のスタイルを貫き通しているうちに良さが伝わる。そんな風に思う今日この頃…。

 

 

要するに。

人類滅亡してもなお語り継がれるのは、亀ラップであり、『ボボボーボ・ボーボボ』。そういう話でした。おしまい。