vtuberのメイド喫茶店員経験率を思う

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なんとなく、高い気がします。普通の人より。特に根拠があるわけではないのですが。分かっている内だと、名のあるvtuberが2〜3人思い浮かぶくらい。その他コンセプトカフェやリアルガチメイド(家事代行的な)も含めれば、もう少し増えそう。

どちらも、接客業といえば接客業です。バーチャルキャバ嬢と揶揄されることもありますが、あれはあれで精神を疲弊しますからね。接客業を突き詰めると、最終的には水商売に辿り着くのではないでしょうか。

動画勢より配信者に多いと思うのは、単に知らないだけか、それとも事実そうなのか。動画勢より配信者のほうが、私生活や過去をさらけ出しやすいから、そう思うのかもしれません。動画勢も、なりきって演じるという意味ではそこまで変わりません。のじゃおじもかつて言ったように、カメラの前で何かする(しかも個人勢なら一人きり)というのは、そういう経験の無い人にはなかなかハードです。

演技、ということでいうと。

テレビでバラエティやトーク番組に出た若手の役者さんが、自分憑依型なんです、役に入り込んじゃって色々大変…みたいな話を、恥ずかしげもなく、どちらかといえば役者の素質があって好ましいくらいの感じで話すの、たまーに見ます。それ、本当に演じられてるの?って他人事ながら不安になる。『「○○する」フリをする人』になってないのかなって。

そういう人は、もし、苛立つ人と苛立つフリをする人を演じ分けろと言われたら、どうするんだろう。些細な違いを積み重ねないと、「演じる」と「フリをする」はほぼ同義になる。普段の生活でディテールに意識が向いてなければ、それを演じ分けるのは不可能になってしまいます。たくさんの具体例を観察するのも一つの手だし、理屈として色んな生理反応(声が上ずる、呼吸が浅くなる、特定の筋肉が緊張するetc)を把握しておくのも手です。読書でも、入り込める作品がよい作品、入り込む読書がよい読み方というような風潮が(ごく一部に)ありますが、少なくともディテールに目が向かない限り、生産的な読書にはなりません。娯楽としてならともかく。

演技に話を戻します。

入り込む演技が許されるのは、例えば、渡瀬恒彦の遺作のような場合。数年前テレビ朝日系列で放送された『そして誰もいなくなった』ですね。この作品は、大袈裟ではなく、テレビドラマ史上にその名を残す、未来永劫語り継ぐべき作品になりました。

発見時すでに手遅れだった末期の胆のうがん、余命を全うすべく抗がん剤放射線治療で対応していた死の間際に撮影されたもの。滑舌もままならない状態でした。が、その役の最期(タイトル通り誰もいなくなるので、当然渡瀬恒彦の演じる役も最期を迎えます。ネタバレにはなりません。あまりに有名な作品なので心配ないとは思いますが、念のため)のシーンは、鬼気迫るものがあった。鼻に通している管も、撮影で用意したものなのか、自前なのか、それすら分からないほど。あそこまで行くと、もう誰も何も言えません。死の間際の人が、死の間際の人を演じる。そのくらいの状況にまでなって初めて、入り込む演技というのは機能する。

ドラマとしても、幸運なことに非常にクオリティの高いものでした。スタッフや役者の人選、舞台なども含めて、局の全力でしょう。それまでアガサ・クリスティ原作の和製ドラマにはあまり信用を置いていなかったのですが(イギリスで作られたデヴィッド・スーシェ主演のポワロ物が良くできているというのもある)、この沢村一樹のシリーズは安定して良い。別の局で作られた三谷幸喜脚本のものが残念な出来だったので、トラウマになっていたのかも…。無論、三谷幸喜さんの脚本家としての素晴らしさを否定するものではありません。どうも、アガサ・クリスティという名前に押されて、小手先の技術に走った印象が拭えなかった。三谷幸喜らしさといえばそうですし、別物として見れば、それはそれでアリなのかもしれませんね。