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前回「もう少し掘り下げる」と言った部分のお話です。
具体的には
最後に、上位陣の実績や実力は十分認識しておりますが、なんというか、もう芸能人レベルなんですよね。振る舞いやこなれ方が。それならいっそプロの編集した地上波のテレビ番組観ようってなっちゃうの、わたしだけかな…。
の部分について。
説明がやや回りくどくなるのですが、結論を先に出すなら、コスパの問題ですね。
おそらく、ちゃんと見れば面白いのだろう、とは思います。登場人物の性格、人間模様、そこに至るまでの背景を理解した上で見るのなら。
付き合いの長い友人となら、どんなゲームで遊んでも楽しいし、なんなら駄弁ってるだけでも延々と暇が潰せます。それと似た感じで、思い入れや繋がりが深いほど、こういうものは満足度が高い。
「芸能人レベル」と書きましたが、上位の企業に属するvtuberたちはもはや事実上芸能人です。実際、売れない声優だけでなくタレントも演者として採用され始めたようですし。
YouTuberもトップ層は芸能人と似た扱いを受けているのと同じで、今vtuberはものすごい勢いでYouTuberの辿った道を追いかけています。男性YouTuberが女性にアイドル的人気を博しているのと逆の現象が、vtuberで起こっているという捉え方も可能です。
テレビより先にYouTubeで娯楽を知る世代が今後増えるなら、テレビタレントとネットタレントの境界線はますます曖昧になっていくかもしれません。
話を戻すと、最近の新人は実績からいっても最低限の面白さというのは保証されている。今上位にかけ上がれるのは、イレギュラーがありながらも、ある程度のところにまとめ、撮れ高をつくり、いい感じに着地させられる配信技術の持ち主だけです。「よっ!流石!」と言って拍手してあげたいくらい。
あとはもう個々の感じ方次第です。思い入れがあればあるほど、見所は増えるし、面白さは増大するはず。
少し傍道に逸れますが、相対形容詞/絶対形容詞という言葉があります。
「面白い」とか「つまらない」とかは相対的、つまり人によって尺度もまちまちなのでそれ単体では意味を成さず、それを補強するもの(理屈や具体例など)が必要になる。「赤い」だの「黒い」だのは、まあだいたい一致するので説明責任は生じない…。
というような話が、大学入試の英語の参考書に書いてありました。たしか『横山のロジカルリーディング』。懐かしいですね。
で、大学入試の英語長文程度なら、それでいい。基本複雑な話にはならないので。内容自体が複雑過ぎると、英語能力で差別化できず、試験として機能しなくなります。
ただ普通に考えればお分かりの通り、「赤い」や「黒い」も人によってまちまちです。世の中には「私がいるかどうかも疑わしい」とか「この世界は五分前に作られたのかもしれない」とか、酔狂なことを考える人もいます。だから、大抵のことは主観から逃れられないし、人それぞれ。どこにも正解はない。それは承知の上で、皆あーでもないこーでもないと日々過ごしているわけです。
で。
仮に上位陣の配信がつまらないとするなら、今あるほとんどのvtuberの配信もつまらないことになります。数字からいっても、中身からいっても。
わたし自身はというと、1番思い入れがあるはずのハニストの配信アーカイブすらめっきり見なくなりました。たまに見ようとはするのですが、端から端までシークバーを動かしても大して画面が変わらなかったりすると、まあいいか、となってそれでお終い。話の内容もメンバーとの絡みか最近の話か次の予定か、そんなとこかな…という感じ。周防氏も以前は雑談配信のネタを予め決めていて、そのときの話題くらいはパッと見で分かるようになっていましたが、そういうのもなくなると、もう本当に見るきっかけすらない。
面白いにしろつまらないにしろ、大体予想がつくものを1時間観続けるというのは、苦行です。
無編集の生配信を見て楽しめるかどうかの境目は、そのキャラに愛着があるかとうかです。逆に言えば、一度そのキャラに対する興味を失い離れてしまった視聴者は、ほぼ帰ってこない。
少し前、やや苦し紛れにCTuberという概念が提示され、それなら尚更演者の変更は致命的では?と言われたりもしました。ドラマでいえば、金八先生が突然武田鉄矢じゃなくなるみたいなものですから、そりゃそこまで観てきた視聴者はガックリというか、観る気もなくなるでしょう。毎週役者が変わる新機軸のドラマなら、それはそれで面白いとは思いますが。
前から述べているように、何者かというのはその人の振る舞いを受けて周りが決めることです。我なんぞやを自ら定義していくことほど見てて辛いものはないのですが、それはそれとして、vtuberがキャラクター化すると、コンテンツとしての幅が狭まる。寿命が縮みます。
どんなものもキャラクター化します。その中で固定客がつき、いつものものを求められ、それに応じる。それはそれでいいのです。多かれ少なかれ、みなそうなる。「本人のモノマネ芸人化」が起きると、ちょっとまずいなとは思いますけど。物書きやアーティストでたまにあります。特に、大御所。どうやって創作してたかもう分からなくなって、求められるまま昔の自分を必死で真似てなんとかやり過ごすパターン。たいてい誰も幸せになりません。
また話が逸れましたが、腕の問題ではなく、生放送ってどうしてもそういうとこあるよね、という話。純粋に面白さを求めて観るものじゃない。打ち切り間際の『笑っていいとも!』がどんな風だったか、覚えているでしょう?
単発ものの動画なら、一度離れてもまた興味を持つ可能性はあります。個人的には、最近またおめシスを観るようになりました。別におめシスのファンじゃなくても、楽しめるように作られている。キャラ付けも二人の関係性もシンプル。ニッチなジャンルの話でも、姉妹の片方が知らない人の代弁者役を務めてガス抜きをする。そういう余地があるコンテンツは、比較的長持ちします。最近見直して面白かったのは、裁判所とかフォント変更のやつですかね。YouTuberとvtuberのフォントの違いはなるほど、となりました。
結局テロップ付きの短い動画は視聴者に要求するものも少ないので(時間的にも内容理解的にも)、アクセスするハードルが低い。短い動画でも、寸劇系はキャラ依存なので新規にはやや敷居が高い印象。あるあるネタとかなら、まだとっつきようもありますけど。
掘り下げるはずが横にばっかり掘り進んでしまいましたが、要は
- キャラクターにどこまで頼るのか
- 作り手はどこにエネルギーを注力するのか
- 受け手にどこまで求めるのか
といったあたりでしょうか。
まとまりのない話ですみません。現状では、これがわたしの限界です。たぶん、あと10年くらい経ったら、もう少しハッキリしてくると思うのですが…。