やさしい世界と夢の国の共通点

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少し前の話。当ブログに悪意あるコメントがきました。

「悪意ある」というのは、決して「わたしと意見のそぐわない」という意味ではありません。そのこと自体は大歓迎なのですが、根拠薄弱というか、個人攻撃の域を出ず。虫の居所でも悪かったのかな?と慮るくらいしか出来ませんでした。

ここから先は想像なのですが、おそらくその人は、ある記事のタイトルだけを見て「こいつは自分の好きなものを無根拠・無責任に否定した、自分の敵である」という判断を下した(実際には、そのタイトルはすぐさま否定されています)。そして、本文中から反論し得る箇所を迅速に発見し、自らも無根拠・無責任に反撃することと相成ったわけです。

 

 

コミュニケーションは、常に機能不全の可能性を孕んでいます。機能不全に陥るだけなら良い方で、たいていは誤解を招く。互いのバックグラウンド・それまで経験した物事によって、伝わり方は千差万別。特に文字伝達は情報のバリエーションが制限されるので、その傾向が強い。当然、出し手であるわたしにも責任があります。分かりやすく書くように努めてはいますが、いかんせん書きたいことが微妙なため、白黒ハッキリつかない。単純に賛成/反対、擁護/反論という話にはなりにくいのです。それよりもっと手前の「これは一体何なのか、何が起きているのか」を探っている段階ですから。

 

そのコメントには「お前は何様だ」というようなニュアンスの言葉もありましたが、皆さんとっくにご存知の通り、何様でもありません。何者でもないことに意味があります。ここに書かれているのは、名もない誰かの一意見、思考の痕跡であって、誰も何も強制しないし、無理に同意を求められることもない。わたしなりに説得力をもたせるよう心がけてはいますが、それはそれ、これはこれ。

 

「こんな風に考える人も、世の中にはいるらしい。

 

ところで、あなたはどう思う?」

 

そういうこと。

 

 

ちょうどいい機会なので、やさしい世界と匿名性の話もしてしまいましょう。

vtuberはニコ生の焼き直し」と言われて久しい。これは本当なのでしょうか?

 

結論からいうと、別物です。似ているが、決定的な部分で異なっている。前から匂わせていたのでお気付きの方も多いでしょうが、コメントの匿名性の有無です。

 

たとえば、このブログのコメントは、匿名でも可能です。「誰が」より「何を」のほうが大事だからと以前書きましたが、匿名のコミュニケーションには致命的な欠陥があります。

冒頭の悪意がどうとかではありません。中身をみれば本気で何かを伝えようとしてるかどうかはすぐ分かるので、そこに問題はない。問題は、文脈に頼れなくなるということ。なあなあのやり取り、なんとなくわかるでしょ?というのが通用しなくなる。匿名は、「その場限り」の裏返しです。ゆきずりの男女関係に、名前は必要ない。逆に知っていたら、あとあと面倒なことになります。

だから、このブログのコメントは、文章そのものが名刺代わりです。そのつもりでいて下さい(もちろん、匿名でなくても構いません)。

 

立場が人をつくる。

ブログならブログの、ツイッターならツイッターの、匿名掲示板なら匿名掲示板の文体・展開・語り口というものがあります。ブログもブログで、はてブやらアメブロやらによって変わってくるんでしょうね。匿名掲示板の闇が、さも現代のインターネット社会特有のものとして問題提起されることもありますけど、あれはとても古典的というか、昔ながらのものです。井戸端会議、噂話、陰口…日本人にとっては、とくに馴染み深いはず。インターネットがなかった時代でも、初代ポケモンのバグ技やガセ情報がいつのまにか全国の小学生に知れ渡っていたのですから、本質的にはたいして変わっていません。一つ留意すべきなのは、同じ人でも、場所の引力で全く違う内容を書くことだってあり得る、ということ。「誰が」というより、「どういうところなのか」が決定的に重要なのです。

(追記:昔懐かしの構造主義的な考えですね。温故知新。)

 

その前提でいうなら、vtuberとニコ生は別物です。YouTubeは匿名でコメントできない。ニコ生は匿名でもコメントできる。その意味では、まだツイキャスのほうがYouTubeと似た環境です。

ツイキャス主がvtuberに転生して伸び悩む理由の一つは、閉じたコミュニティになりやすいからです。匿名が許されない環境だと、どうしても常連や囲いが出来やすいし、ファンとの距離も近くなる。当人もそれを望んでいる節があります。そのツイキャス流のやり方を持ち込めば、どうしたって上手くいきません。

ニコ生もニコ生で、ほとんどの場合似たようなものですが、大手になればなるほど匿名でのコメント参加が増える。当然、殺伐としますが、閉じたコミュニティにはなりにくい。あとは配信者の腕次第です。

匿名が許されるか否かは、その環境の質を左右する。vtuber界が「やさしい世界」といわれるのは、おそらくそこに起因します。やっていることはそれまでと大して変わりません。vtuberとしてのガワはなくとも、たいてい美化されたアイコンやアバターを備えていますし。

例の事件ーー「み」をvtuber界において最も有意味なひらがな一文字に分節化したあれーーは、ニコ生的と揶揄されることも多いのですが、どちらかというとツイキャス的だと、わたしは思います。

 

vtuberリスナーがどれくらいニコ生やツイキャスリスナーと被っているのか、正直言ってよく分かりません。仮に同じ層が横流れしていたとしても、その環境に応じて姿を変えているでしょう。ニコ生で匿名の辛辣コメントをしていた人が、vtuberのところではやさしい言葉をふりまいてるかもしれない。やさしさだけでは、リスナーの成熟度を推し量れないのです。

 

非匿名性に起因した「やさしい世界」は、今や別の問題を引き起こしています。ファンアートという文化です。

それ自体は全く悪いとは思いません。純粋な好意で、あるいはクリエイティビティを刺激されて、何かを創りたくなる。微笑ましい光景です。理想的ですらある。

しかし、それが常態化すると困ったことが起こります。配信のサムネイルにクオリティの高いファンアートを使うのは当たり前で、ひどい場合には無償で動画作成を依頼する場合もあります。

閉じたコミュニティ、配信者とファンの距離が近いところで、よく起きる現象です。「あなたはわたしのファンでしょう?手伝わせてあげる」。ファンもその人のお役に立てるのがうれしくて、あるいは個人的に仲良くなるチャンスだと思い、喜んでタダ働きします。鈴鹿詩子は動画作成を外注していますが、放っておいたら向こうからどんどん「タダでやります!」というファンが出てくる。そういう世界になってしまっている。

 

端的に、無償奉仕は市場を破壊します。vtuberというブームは、限られた人たちしか恩恵にあずかれない。広く還元されずに止まっている。いわゆる中の人を、ブラックな環境でこき使う事例が後を絶たないのと同根です。ファンアートを創る人も含めて、もっと陽の目が当たるべきと思いますが、どうもその方向には進んでいない。

場合によっては、本人がその状況を望んでいるのかもしれない。お金が絡んだビジネスライクな関係より、一ファンでありたいと。それなら何もいうことはありませんが、それで世の中世知辛いとか言うのはお門違いです。進んで自らの価値を貶めているのだから。

 

 

やさしい世界は、夢の国のように、やりがい搾取で成り立っています。

労働に適切な対価を支払わないで済ませて、さも尊い美徳のように扱う風潮をvtuber界全体に作っているのは、一体誰なのでしょう…?