なぜ、vtuberの新衣装は中の人に寄ってしまうのか?

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さて。

毎度恒例の「なぜ」シリーズです。

「なぜ」と言いつつ、別にこれという結論を求めたりはせず、ふわふわしたまま話が進む、例のあれ。前回のケリンの記事などは、例外中の例外です。

 

今回の疑問、だいぶ前にふと感じて下書きに放り込んだは良いけれど、いまいち気乗りせずそのままにしていたもの。せっかくなので、供養も兼ねて当て所なく考えてみることにしましょう。行き当たりばったりにはなりますが、ゆるくお付き合いください。

 

 

そもそも「vtuberの新衣装が中の人に寄っている」なんてこと、起きてるのかしら?

これは、確かめる術もなければ、確かめたところで個々の感じ方次第です。甲斐ない詮索に終わることでしょう。

 

 

一口に新衣装といっても、その内実は様々です。着せ替え人形のように着脱可能なアクセサリが増える場合もあれば、美容整形でもしたみたいに顔立ちが変わるときもあるし、究極、骨格レベルの変貌を遂げても構いません(そこまでいくと新衣装という言葉では効かないので、アップデートという言い方のほうが便利で使われやすいか…)。3D体なら、衣装ごとモデリングされているでしょうから、おいそれと着替えるわけにはいきません。かなりの資本と労力が要ります。もちろん2D体も、それ相応のものが必要。

 

そんなわけで、新衣装にはそれなりの理由がなければなりません。大幅な変更になればなるほど。たとえば、新規顧客獲得のために外見をブラッシュアップする必要がある。富士葵(第2形態)がこれに該当すると思われます。第1形態は、vtuberブームに乗り遅れないことが先決でしたから。

ただ、これも良し悪しで。新規顧客を増やす分、既存顧客を減らせば元の木阿弥。3D体で新モデルを作れば、事実上それまでのモデルは封印されます(投資費用の問題なのか、技術的に面倒なのか、現行モデルがベストという意思表示

のためなのかは不明ですが)。既存ファンの旧モデルに対する愛着というのは、想像以上のものでして。慎重な判断が求められます。

ときのそらや織田信姫あたりは、新モデルを作る必要があったのかな?と思ったりもします。織田信姫なんて、あの顔の大きさがアイデンティティの一つであったのに。

ときのそらは、あの芋っぽいというか、田舎の女子高生感を醸し出す旧モデルから、「わたしアイドルです!」感を前面に押し出した現モデルに変更されました。ある意味では、演者含めた運営の方針やメンタリティがはっきり見えていいかもしれません。

 

 

人は見た目が9割、なんて言葉もありましたね。たしかに、見た目は大事です。周りからどう見えて、他人がどう思うか。それと同時に、自分自身が「周りからどう見えている」と思うかも、大事なことです。

 

 

vtuberの見た目と演者の関係というのは、なかなか興味深いものがあります。

同人誌で獣人に竿役をあてがう人なら、自身も獣人系vtuberになるかもしれない。レズビアンとしての性的指向をもつ人なら、vtuberとしての見た目も典型的なそれに近づくかもしれない。中国人の血が流れているのなら、チャイナ服を着せたくなるかもしれない。これらはすべて、仮定の話です。しかし、上記の関係について、考えるきっかけを与えてくれます。

 

以前にも書きましたが、演者と3D体の間であまりに乖離があると、トラッキングが不安定になります。そういう現実的な理由による外見変貌は、まあ、あるだろうと。今考えているのは、それとはまた別の話。

 

 

新衣装を作ろうとなったとき、当然、運営や演者の意向を汲んだものにはなるでしょう。運営がどう売り込むつもりなのか、演者はどんなキャラクターを演じていきたいのか、等々。それ以外にも、そのキャラクターの名義で為してきた言動の数々と、うまく整合性の取れる出で立ちである必要も出てきます。そういう意味では、vtuberとしての見た目が演者のパーソナリティに影響されて寄っていく、あるいは寄せていくというのは、想像に難くありません。

 

 

逆に。

vtuberとしての見た目が、演者の人格に影響を及ぼす可能性は?

 

個人的には有り得る、と思います。下手したら、人格が乗っ取られるという可能性さえ。

先ほど少し話した『私は「周りの人はこう思っている」と思う』という、入れ子構造の話。他者の視線の内面化。なんだかこう書くと、一昔前にタイムスリップしたみたいですね。

 

 

たしかに、「自己投影」や「理想の自分の具体化」と言ってしまえば、済む話ではある。でも、ことはもう少し複雑かもしれない。なんなら「大掛かりな化粧」と言ってみましょう。

 

vtuberと中の人は、同じようで違う。違うようで同じ。両者の間では、ひとりの人間の主導権を巡り、押し合いへし合い、せめぎ合い、話し合い、擦り合わせを行い、妥協点を探している。互いに影響を及ぼして、どこからどこまでが元の「自分」だったかわからなくなるほどに。

 

そう考えると、vtuberであり続けるというのは案外、スリリングな現象かもしれません。