由宇霧という在り方

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先日、久しぶりに由宇霧のことを思い出しまして。

とくに理由があったわけでもなく、なんとなく。あのvtuber、いま何してるのかなぁって。

 

いやー、ビックリしました。まさか銀盾が見える位置につけていたとは。

 

 

これ、何人かの人には同意を得られるものと仄かに期待しているのですが、vtuberってデビュー当初の段階で、だいたい「あそこらへんまではいくかな」っていう想像がつくじゃないですか。極端にいえば、キャラデザと声だけで「あぁこれは売れる」とか「こら厳しいな」とか。箱によってかかる下限キャップや、ブランド力も含めて。

性格とか人間性も大事っちゃ大事ですけど、キャラクターのその世界における立ち位置とか役割みたいなものって、どうとでもなりますからね。vtuber界隈でもいくつかの典型的なキャラづけがありますし、ちょっとそっちに近づけば、あとはやさしい世界の住人が強化してくれますから。

じゃあ声が全てかといったら、そうもいかないのが難しいところなのですが。これもやさしい世界なので、どんな声でも、だいたい好意的に受け止められます。ガワが良ければ、補正もかかりますし。最低限の滑舌なんかは、それなりにキャリアを積めば意識次第で改善されてきます。これはこれで、聞いていて面白い。

ビジュアルも、実際のところどう転ぶかは蓋を開けてみないとわからない。宇志海いちごのビジュアルが公開された当初は、ほっぺの模様が蓮コラみたいで抵抗あるという意見も散見されましたね。今ではすっかり気にされなくなりました。

 

そんなわけで色んな要素が絡みはするのですが、なんとなく「売れる」「売れない」みたいな予想はし得る。本間ひまわりなんて明らかに「覇権とるな」って匂いプンプンでしたし、最近なら夢月ロアとかも、キャラデザと声でわかりやすく人気が出るタイプだなと思いました。個人的な興味は薄いですが。

 

 

で、由宇霧。最初に知ったときの印象は「確実に需要はあるし、唯一無二だけど、vtuberで人気が出るかは怪しい」でした。キワモノ感というか、最初のうちはどうしても「下ネタオープンキャラなら人気出るやろ」という安直な発想の可能性も捨てきれなかったので。実際は、そんなことありませんでした。ただ、そうだとしても、vtuberとしてやっていけるかはまた別の話で。いかに面白おかしく語られるかが重要になったこの世界で、こういう真剣な、本当の意味で今のネット社会に必要なタイプが、果たして人気商売の荒波を潜り抜けられるか。正直なところを申しますと、無理だろうと思っていました。

だからこそ、その由宇霧が銀盾目前という事実に驚愕したのです。同時に、己の見る目の無さを猛省しました。あぁ、思ってたより、vtuberは悲観的ではないのかな、と。

 

 

由宇霧の足跡を見るにつけ、なかなかこの人は、vtuberの本懐を見事に遂げていると感じました。それこそ、わたしがこんな辺鄙な場所であくせく駄文を書き散らす必要もないのでは?と思わせてくれるほど。それくらい、彼女のものの考え方は、すとーん、としっくりきました。

 

ではそのvtuberの本懐とは何なのか、と思われるでしょう。なかなか説明しづらいのですが…。わたしに学があれば坂部恵の「仮面」をもちだして話を敷衍したりできるかもしれませんが、生憎そんな学は持ち合わせておらず。簡潔に述べます。

 

vtuberになることは、別人格をもつことです。vtuberでなくとも別人格をもつことは出来ます。タレントや芸能人もそう。プライベートなそれと、オフィシャルなそれは違う。一般人も同じ。家と職場じゃ別人のように振る舞うし、そうじゃないとむしろ困るわけです。

vtuberが流行り始めた頃、なぜYouTuberではいけないのか、生身じゃダメなの?という疑問がありました。別に生身でもいいんです、きっちり区別して考えられるなら。でも、なかなかそれは難しい。芸人さんに道端で会ったからといって、勝手に写真を撮っていいわけではありません。オールオッケーなのは、明石家さんまくらいです。あの人は、元の人格すら明石家さんまに乗っ取られてしまってますから。

普通、本来の自分とは違うガワを被ることは、真実から遠ざかると思われがちですが、実はそうではありません。一枚間に挟んで、仮の姿になればこそ、タテマエを捨てて、ホンネを晒け出せるのです。お互いに。

 

そういう意味で由宇霧は、これぞまさしくvtuberという在り方をしている…と、わたしは勝手に思っています。

なぜ、vtuberの新衣装は中の人に寄ってしまうのか?

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さて。

毎度恒例の「なぜ」シリーズです。

「なぜ」と言いつつ、別にこれという結論を求めたりはせず、ふわふわしたまま話が進む、例のあれ。前回のケリンの記事などは、例外中の例外です。

 

今回の疑問、だいぶ前にふと感じて下書きに放り込んだは良いけれど、いまいち気乗りせずそのままにしていたもの。せっかくなので、供養も兼ねて当て所なく考えてみることにしましょう。行き当たりばったりにはなりますが、ゆるくお付き合いください。

 

 

そもそも「vtuberの新衣装が中の人に寄っている」なんてこと、起きてるのかしら?

これは、確かめる術もなければ、確かめたところで個々の感じ方次第です。甲斐ない詮索に終わることでしょう。

 

 

一口に新衣装といっても、その内実は様々です。着せ替え人形のように着脱可能なアクセサリが増える場合もあれば、美容整形でもしたみたいに顔立ちが変わるときもあるし、究極、骨格レベルの変貌を遂げても構いません(そこまでいくと新衣装という言葉では効かないので、アップデートという言い方のほうが便利で使われやすいか…)。3D体なら、衣装ごとモデリングされているでしょうから、おいそれと着替えるわけにはいきません。かなりの資本と労力が要ります。もちろん2D体も、それ相応のものが必要。

 

そんなわけで、新衣装にはそれなりの理由がなければなりません。大幅な変更になればなるほど。たとえば、新規顧客獲得のために外見をブラッシュアップする必要がある。富士葵(第2形態)がこれに該当すると思われます。第1形態は、vtuberブームに乗り遅れないことが先決でしたから。

ただ、これも良し悪しで。新規顧客を増やす分、既存顧客を減らせば元の木阿弥。3D体で新モデルを作れば、事実上それまでのモデルは封印されます(投資費用の問題なのか、技術的に面倒なのか、現行モデルがベストという意思表示

のためなのかは不明ですが)。既存ファンの旧モデルに対する愛着というのは、想像以上のものでして。慎重な判断が求められます。

ときのそらや織田信姫あたりは、新モデルを作る必要があったのかな?と思ったりもします。織田信姫なんて、あの顔の大きさがアイデンティティの一つであったのに。

ときのそらは、あの芋っぽいというか、田舎の女子高生感を醸し出す旧モデルから、「わたしアイドルです!」感を前面に押し出した現モデルに変更されました。ある意味では、演者含めた運営の方針やメンタリティがはっきり見えていいかもしれません。

 

 

人は見た目が9割、なんて言葉もありましたね。たしかに、見た目は大事です。周りからどう見えて、他人がどう思うか。それと同時に、自分自身が「周りからどう見えている」と思うかも、大事なことです。

 

 

vtuberの見た目と演者の関係というのは、なかなか興味深いものがあります。

同人誌で獣人に竿役をあてがう人なら、自身も獣人系vtuberになるかもしれない。レズビアンとしての性的指向をもつ人なら、vtuberとしての見た目も典型的なそれに近づくかもしれない。中国人の血が流れているのなら、チャイナ服を着せたくなるかもしれない。これらはすべて、仮定の話です。しかし、上記の関係について、考えるきっかけを与えてくれます。

 

以前にも書きましたが、演者と3D体の間であまりに乖離があると、トラッキングが不安定になります。そういう現実的な理由による外見変貌は、まあ、あるだろうと。今考えているのは、それとはまた別の話。

 

 

新衣装を作ろうとなったとき、当然、運営や演者の意向を汲んだものにはなるでしょう。運営がどう売り込むつもりなのか、演者はどんなキャラクターを演じていきたいのか、等々。それ以外にも、そのキャラクターの名義で為してきた言動の数々と、うまく整合性の取れる出で立ちである必要も出てきます。そういう意味では、vtuberとしての見た目が演者のパーソナリティに影響されて寄っていく、あるいは寄せていくというのは、想像に難くありません。

 

 

逆に。

vtuberとしての見た目が、演者の人格に影響を及ぼす可能性は?

 

個人的には有り得る、と思います。下手したら、人格が乗っ取られるという可能性さえ。

先ほど少し話した『私は「周りの人はこう思っている」と思う』という、入れ子構造の話。他者の視線の内面化。なんだかこう書くと、一昔前にタイムスリップしたみたいですね。

 

 

たしかに、「自己投影」や「理想の自分の具体化」と言ってしまえば、済む話ではある。でも、ことはもう少し複雑かもしれない。なんなら「大掛かりな化粧」と言ってみましょう。

 

vtuberと中の人は、同じようで違う。違うようで同じ。両者の間では、ひとりの人間の主導権を巡り、押し合いへし合い、せめぎ合い、話し合い、擦り合わせを行い、妥協点を探している。互いに影響を及ぼして、どこからどこまでが元の「自分」だったかわからなくなるほどに。

 

そう考えると、vtuberであり続けるというのは案外、スリリングな現象かもしれません。

先週の反省と今後の予定

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『どうして机に直で目玉焼き🍳乗ってんですか?』

「……」

「だから、これはお紅茶☕️のお皿よ!」

「んもう、イヤんなっちゃうわね」

 

 

閑話休題的記事です。

 

まずは、このブログに関する事務的なあれ。

先週は「2日に一本」のペースで試しに書いてみたのですが、案の定というか、体調を崩しました。ので、とりあえず今週は「3日に一本」のペースを目安に。そういう、なんてことはない報告。

誰に頼まれたわけでもないのに体調を崩すっていうのは、なんとなく面白いですね。いや、面白くはないか…?

 

 

次に、ネタのチラ見せ。今週は花魁VTuber由宇霧について話すつもりです。これがなかなか、うん。背筋がピッとなりますね。まあ、詳しい中身はそのときに譲りましょう。

 

 

これだけだと短いので、あとはゆるい話題の付け足しです。

 

先日、周防パトラによる千年に一度の朝枠がありましたね。前回は色々あってお流れになってしまいましたが、無事執り行われてなにより。

非常にこう、冒頭にも引用させていただきましたが、お嬢様の優雅なお紅茶配信を彷彿とさせる雰囲気でした。古株のファンの方は、喜びもひとしおという感じだったのでは。わたしは別に古株ではないので、想像するだけですが。個人的には、寝起きのおじゃる丸くらいの声がちょうどいいですね。

終盤のカニカマパートも、DJ電波回の「語尾に『にゅ』をつければなんでも幼女説」を思い起こさせるものでした。

「お嬢様」も「DJ電波」も探せばありますので、ご興味お持ちの方はいかがでしょうか。

 

こういう話をできる場所も、なかなか見当たりませんので。せめて、この辺境の地に書き残しておきましょう。

 

では。

vtuberがケリン抜きでは語れない理由

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前回の記事で

わたしは偶然にも、世界的R-18サイトで、もこ田めめめを素材とした動画を目にしました

ーーこう書いたのですが、果たしてそんな偶然などあるものか?とお感じになった方も、いらっしゃるのではないでしょうか。あるいは、この動画に興味をもったものの、疚しさ故かいまいち踏ん切りのつかない方。そんな方々に使える、魔法のことばをお教えしましょう。

 

 

「ミソシタの動画を見に行った」。

 

 

彼が世界的R-18動画サイトに動画投稿してから、随分になりますね。本当に便利な存在です。いや、今言ったような便利さは、比較的どうでもいい部分ですが。もう少し突っ込んだ話をしましょう。

 

 

わたしがいま思い浮かべているのは、IHクッキングヒーターです。高火力だが、火事にはなりにくい。この界隈において、そういう存在は貴重です。女性vtuberと絡んでも炎上しにくい、または負の感情を抱かれにくい男性vtuber。ミソシタの場合は、そもそも他vtuberとの絡み自体が少ないのであれですが。小山内めいが、パロディ動画『ミッドナイト・めいちゃんドリーム』を出したくらいですかね。

 

vtuberにおいて、他との絡みはなかなか厄介な問題です。特に、男女が混ざる場合。少なくとも、これという正解は出ていません。そもそも原初的なvtuberなら、設定の擦り合わせが面倒です。3D動画勢しかいなかった頃は、交流自体まれでした。ツイッターでやり取りするか、それなりの信頼関係(バックも含めて)を築けば互いの撮影現場に出向く…というくらい。

2D生配信主体化以降は、ハードルがグッと下がりました。にじさんじなら、以前話したように「家族売り」がベースです。大所帯のなかで、各々グループを作ったり、外部と交流したり、割と自由。一部男性陣に関しては、燻る火種という感じですが。あまりにも「脛に傷持つ」タイプが多いので、そういう選考基準なのかと一瞬疑ったりもしましたが、流石にそれはないか…。実績と天秤にかけた結果、メリットのほうが大きいとの判断なのでしょうね。

アイドル部のように基本鎖国、というのも一つのやり方です。ただ、これは四天王の一角を占めるシロが、こまめな手助けを怠らないからこそ為せる技です。なんの保証もないvtuberがやるには、リスキー過ぎます。

 

絡み(特に男女のもの)自体不要と見る向きもあるでしょう。しかし、異なる視線に晒されてもなお見るに耐えるか、複数の立場から価値を認められうるか、というのは、コンテンツの成長と長持ちには欠かせません。何千何万の賛同を得ても、同じ趣味嗜好の持ち主ばかりでは、儚い。スポーツ選手なら(仮に不祥事を起こしても)実力と結果次第でいかようにも評価されますが、この手の不確かなものに価値を見出すタイプでは、尚更。無論、閉鎖的なコンテンツも必要とされる以上は、それを否定するものではありません。

 

 

話をIH型vtuberに戻すと、いの一番に名前が挙がるのはピーナッツくんでしょうか。異性受けではなく、万人受けを意識したキャラクター作り。動画メインに生配信もこなし、定期的にイベントを主催。隙がありません。天開司、ふくやマスターなども炎上せずに絡めるという点では貴重ですが、残念ながらわたしの見識不足ゆえ、これという場面に出会ったことがありません。そもそも火力不足、という認識に留まっております。

 

そして、欠かしてはならない男、ヤミクモケリン。

最初にこのvtuberを知ったときは、今とは違う意味でかなり危ないと感じました。エルフのえるに乗っかって、ファン心理の延長上に生まれた存在のように思われたからです。折しも、月ノ美兎のパチモン杉ノ美兎が物議を醸した頃。また、2D生主になることの心理的抵抗が減った結果、vtuberと仲良くなることありきというか、下心の見え隠れする手合いが急増したこともあります。この頃のあっくん大魔王などは、かなり危うい雰囲気でした。そういう意味で、ケリンも不安視の対象だったのです。

 

結果的には、彼ほど線引きのしっかりしたvtuberもいなかった。めちゃくちゃやってるようでいて、大事なラインは踏み越えないよう配慮しています。古き良き(?)ニコニコ文化の最後の生き残りの一人。練られたプロット、飽きさせないテンポ、古今様々なネタ、変化球とお約束のバランス。ケチをつけるなら、身内ネタが過ぎることぐらいです。個人的には、奈良判定とうんぱっぱ、MAXENDとペニーワイズあたりが白眉だと思います。

(追記:後者は今ならつかみの部分でNG出してるかもしれませんね)

 

あのタイミングで彼のようなvtuberが出てきて、この位置までこなければ、界隈はずるずると出会い厨的な方向に(今よりもっと)流れていたかもしれない。だから、vtuberを語る上で無くてはならない存在だと言ったのです。vtuberがまだコンテンツとしての形を保っているのは、彼のおかげです。

ダサ靴下とエロ

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もこ田めめめの靴下はダサい、とは至言です。

スタイルの良過ぎる下肢、鮮やかな色使い、主張し合う柄。それら全てが、上半身からは想像もつかない要素として組み合わさり、たった一つの結論、すなわち「ダサい」を導き出しています。

配信者にとって、ツッコミどころを作ることはとても重要です。vtuberの場合、肩透かし程度の、ちょっと斜に構えたくらいのツッコミどころではいけません。「やさしい世界」の住人は、好意的な変換フィルターを通して物事を見ています。やるなら徹底的に。100人中100人が同意するレベルにしなければ…。その意味で、彼女の靴下は見事に役目を果たしました。

 

こんなことを考えるに至ったのも、つい最近、その靴下の凄まじさを再認識する機会に恵まれたからです。

わたしは偶然にも、世界的R-18サイトで、もこ田めめめを素材とした動画を目にしました。衝撃でした。全く内容が頭に入らない。靴下のクセが強すぎて。あれに興奮できる人は、きっと相当な靴下フェチなのでしょう。

 

 

思えば、vtuberというのは意外に性的消費されにくいコンテンツです。いわゆるオタク界隈にあり、かつ、技術的にも親和性の高そうなジャンルであるにもかかわらず。一部には、自ら性的消費を促す類のものもいますが…。

いくつかの理由が考えられます。一つ目。かねてから述べているような「やさしい世界」であることが、いい方向に作用した。彼らは主に「かわいい」という味付けを施して(まるでふりかけ!)それらを消化しますが、「かわいい」と「エロ」は基本、相容れません。特に、前者の延長上の遥か先に、崇め奉る崇拝の感情がほの見える場合には。恋慕といったほうが分かりやすいでしょうか。あるいはーー下品かつ失礼な例え話で恐縮ですがーー小中学生の男の子が好きなクラスメイトをオカズにできない、またはそうすることに罪悪感を覚える、という話を聞いたことがあるでしょう。おそらくは、それに近い何かが作用しています。

 

二つ目。vtuberが身近になったから。にじさんじ以降の生配信主体化、ツイッターでのファン交流という文化(あるいはノルマ?)によるものです。先の例え話でいうと、ブラウン管(…今なら液晶パネル?)の向こう側のタレントに対してなら、罪悪感を覚えることは少なかったでしょう。クラスメイトという身近な存在であることが、罪悪感を増幅させているのです。性的消費は、対象の人間性を一旦括弧に入れ、打ち遣り、性的要素を強調することで成り立つものだから。古代の壁画や偶像なんかで、やたら胸部や臀部が肥大化したもの、見たことありませんか?要は、そういうことです(やや暴論ですが)。対象の為人に触れれば触れるほど、性的消費は精神的苦痛を伴い、困難になります。逆に言えば、性的消費に抗うのなら、仲良しになればいい。

 

 

「技術発展の陰にエロと戦争あり」とはよく言ったもので。たしかにVR技術は、エロや軍事訓練の分野でめきめきと進歩しつつあるようです。しかし、たまにはそれら抜きでことが進むというのも…悪くない、と密かに思っています。

笑いの反射神経

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まず、この文章は本来「若さ」の流れで書かれるはずだったものの、なんやかんやであぶれてしまった哀しいものたちの供養です。それではゆるっといきましょう。

 

少し前に「スランプだ、文章書けない」などと図々しくも一丁前に騒いでいた頃、気分転換にお気に入りのコントを見ておりました。インパルスの「交番」のコント。板倉扮する警官のもとに、堤下扮する空き巣被害者が駆け込むというやつです。安定感なら「悪魔祓い」や「ウェイトレス」のほうが勝っていますが、「交番」が上振れしたときの凄まじさたるや。インパルスの現状が、余計に惜しまれます。ネタ作り・コントでの演技力等々から板倉が天才だというのは鉄板ですが、やはりインパルスは堤下あってこそ。彼らがトントンの力関係になければ、あのコントは成立しません。今のパワーバランスでは、難しいでしょうね。あれはあれで光る何かを感じるので、もっと露出が増えるといいなぁ…と願って止みません。

 

歳をとって笑いの質が変わるというのは、なにもインパルスに限った話ではありません(彼等の場合は事情が特殊ですが)。大抵の人は何事もなくとも、普通に生きていくなかの山あり谷ありで、丸くなったりなんだりします。松本人志なんかは有名ですね。若かりし頃批判していたような大御所になりかけています。それが悪いというわけではありません。人の考えは変わっていくものです。いつまでもキャシー塚本をやっていたら、頭がおかしくなります。

 

総じて、若い人は尖った笑いを、年老いた人はコテコテの笑いを好む傾向にあります。周防パトラも例に漏れず…。

 

在りし日の彼女は、シュール系の笑いに重きを置いていました。代名詞であった「ファーファ」シリーズは比較的王道ですが、絶妙な抜き加減とテンポの良さが光っていましたね。わずかに残る貴重な生配信の記録からは、シュール系のセンスが垣間見られます。その手の才能が皆無なら、「グリンピースも二足歩行で頑張ってる」というフレーズは出てきません。クジラックス作『らぶいずぶらいんど』の有名なワンシーン、「ふくしのだいがく出てるんですけど!」を画面に映しながらの飲酒配信もありました(好きだったんですけど、もう消えてますね)。りんごシードルでべろべろに酔っ払い、黒猫のタンゴをあざとく歌う回です。同性の敵を作る理由がよく分かります。

 

今は違います。茶色い卵に「お前調子乗ってんじゃねえ」と息巻いていた頃の彼女は、もういません。今いるのは、茶色い卵で嬉々として料理配信をする周防パトラです。

 

 

とはいえ、この書き方は不正確かもしれません。懐古的ニュアンスを多分に含んでいる。実際には、顔出し配信を始めた段階でもう別物です。まだ仮説の域を出ませんが、一般に配信者やYouTuberなどのネットタレントは、顔を晒すか否かで大きく質的に変化する。受け手の反応・メンツだけでなく、当人の心構えや、何を提供するかも含めて。良し悪しの話ではありません。

卵が先か鶏が先かの問題もありますが、「顔」という最も直接的でプライベートな情報の有無は、その人の配信者としての方向性を左右します。おそらく、vtuberが新たな消費者層を発掘したのはそのためです。生身のYouTuberに抵抗があった、あるいは関心を持てなかった人々のニーズに合致した。その後vtuberのほとんどが配信者となってからも、それまで配信文化にノータッチだった層が「太客」になっているように思われます。このあたりは、また別途考えるスペースを設けましょう。

 

 

周防パトラに戻るなら、ごく初期のデート配信は微かにセンスの片鱗を感じます。しかし、以前とは客層が全く違う。もっとハッキリとした分かりやすい笑いでウケを狙いにいかないと、ただのかわいい声の人というレッテル貼りで終わりかねません。その後はご存知の通りです。象徴的なのは学力テスト。健気であると同時に、痛ましくもある。学力テストでいうなら、樋口楓も該当します。これに出られそうなvtuberでは一番格上というか、集客が見込めるという都合上の人選なのでしょうかね。

 

仕方ない面もあります。現代日本識字率ほぼ100%、また、ピンキリとはいえ大学進学率も5割を超え、6割に迫る勢い。目を見張るほどのアホは、ほとんど淘汰されたと言っても過言ではありません。偽りのアホだとしても、企画成立には必要不可欠なのです。

 

そんな世の中だからこそ、ぽんぽこは素晴らしい。彼女は、あゝ、掛け値無しのアホです。純粋なアホ。純度100%のアホ。底抜けにアホ。選ばれしアホ。アホのエリート。アホがゲシュタルト崩壊してきたのでもうやめますが、こういう人材が、現代日本においてどれほど貴重か。彼女が真実のアホを貫き通せるのなら、vtuberという世界もまだ捨てたものじゃないのかもしれません。

今後のネタのチラ見せと、自戒

(1953字)

なんだか、柄にもなくしんみりというか、いろいろ思い巡らせる今日この頃。

 

みんな、なにかしら考えとか、理念とか、思想・信条とか、伝えたいこと、伝わりきらずに燻ってるもの、ぐじゅぐじゅした澱を抱えて生きているんですね。

幸か不幸か、わたしは深く物事を考えるにはおつむが足りないので、どうにもそこまで辿り着きません。政治的な、普遍的な思考回路が未発達です。「物事はかくあるべし」まで行き着かない。個別具体の話か、ふわっとした話にしかなりません。

料理でいうなら、フルコースのメインを作る気力、体力、技術もない。言いたいことはほんの数行。わたしはただミョウガを食べてほしいのです。でも、ミョウガ単体で渡されても困るでしょう?わたしだって困ります。だから、別の食材とともにそれっぽくこしらえて、ミョウガも一緒に味わってもらう。それだけです。

 

 

…少し間が空きましたね。ぼちぼち再開しましょうか。

 

といっても、今日は肩慣らし程度。

以前「どういうことを書く予定か先出しする」と言っておきながら放置だったので、それも兼ねた記事になります。自分でも、いったい何を書くつもりだったのか忘れてたりしてるでしょうし。

 

いま自分の中で一番ホットなのは、ケリンですかね。彼の話を近々したい。「vtuberについて体系だってまとめる」ということを、いつか誰かがやるでしょうけど、どんな方向性であってもこの人を欠かすことはできないと思います。それくらい彼は、vtuber界において重要な役割を果たしました。

ついでに言うと、このブログの密かな目標として、自分が一応通ってきたvtuber、名前を知っているvtuberはすべてタグとして登録したい…というものがあります。どうしても既出vtuberの話題でループしがちなんですが、その目標に向けて、新規開拓も狙っていきたいところ。

 

最近(もう最近ではないか)の話題でいうなら、2人目のキズナアイ、あるいはキズナアイの分業化。これは結構おおごとですよね。ファンがどう受け止めているのかにも、興味があります。

 

あと、アドウェイズの話。いっつも名前を忘れてしまうので、備忘録も兼ねて。意外と早い段階から、vtuberに関わっています。774.incとか、アプリ変更とかも含めての話を目指して。いまいち頭の中でまとまっていませんが…。

 

月ノ美兎の業の深さは、濃縮還元されている」についても、いい加減手をつけないと。後回しにすればするほど、億劫になります。

 

やさしい世界の話もそうです。もしかしたらいま、ちょうどいいタイミングがきてるかも。このブログの在り方の確認も含めて。耳にタコかもしれませんが、とかく人間は忘れっぽい生き物です。いくら確認しても、し過ぎということはありません。自身への戒めでもあります。

このブログのやっていることは、なるべく多方面に、極力失礼のない形で喧嘩を売るということです。「喧嘩を売る」とはなかなか穏やかじゃない、やや誇張した表現ですが。要は、どれだけフラットなモノの見方をできるか。特にvtuber界隈は、生主・キャス主流入以後の密なファン交流ゆえか、全肯定で褒めそやす信者と、貶めることが目的と化した悪意ある第三者という二極化が進行し、固定化しつつあります。もちろん、どんな意見にも主観はつきまといます。それこそ、フォーマットが厳格に定まった官報や、データ分析による数字の羅列などでもない限り。いや、それでさえ、単位の選び方、グラフの書き方、分析手法の取り方ひとつでいかようにも主張可能です(一瞬「老後2000万問題」が頭をよぎりましたが、まあ、そういうこと)。それでも、主観なりに説得力を持たせる努力はしたい。

もう一つ大事なのは、その喧嘩は買われようがないということ。万が一当人がこのブログの存在を知ったとしても、ハッキリ言及することは構造的に無理です。どんなvtuberでも保持せねばならない、「第三の壁」的なものの向かい側にいますから(追記:まれに当人に向けて書かれているかのようなものもありますが、そう設定したほうが文章を書きやすいという、ひたすら便宜上の問題に過ぎません)。だからこそ、失礼のないよう、なるべく万人に納得のいく文章でありたいと願っています。同様の理由から、はてなブログを選びました。一番当人たちからは遠い場所と思えたからです。人口に膾炙したければツイッターで発信します。当人の目にも触れやすいでしょう。でも、そもそもこの文章はそういう性質のものではない。

 

 

…そういうわけで、こうやって定期的に文章化し、自身の肝に銘じているのです。決して、諸手を挙げて喜ばれるものではないのだよ、と。

 

(2019/06/19 追記)